平和への祈りはどこまでも 2
自分の体や心だけが本当の健康ではない
2006年10月、スペインのマヨルカ島で、初めて「整体のセミナー」を開く機会に恵まれました。9年前に赤城山での「整体ライフスクール」のセミナーに参加したスペイン人の男性が、その時に自然農法を実践されている福岡正信さんのビデオ(英語版)を見て感動し、その後自費で福岡さんを招き、大学での講演会や様々な活動を行った場所が、マヨルカ島です。
この島は、もっと砂漠化が進んでいると思いましたら、植林も始まり、またクローバーや様々な野菜の粘土団子を蒔いた場所がいくつもあり、福岡さんの種まきが着実に広がっていることを知り、大変うれしく思いました。
そのセミナーで、日本の憲法第9条を知ってもらいたいと思っていましたら、「整体ライフスクール」に参加している女性が、小学校5年生の娘さんと一緒にスペイン語に訳した憲法第9条のカードを作ってくださいました。マヨルカ島でのセミナーでこれを読み上げ、第9条が日本で危機的状況であることを伝えましたら、50名近い参加者から大きな拍手が起こりました。
帰国後、マヨルカ島での、このセミナーを主催した74歳になるジョルジュさんから手紙が届きました。
スイスの新聞に、日本の若い女性が自衛隊に体験入隊したという記事が掲載され、スイスのローザンヌから参加した女性がそれを彼に送ったそうです。その記事を読んだ彼は、事の深刻さに「美しい地球を守ろう」というメッセージを添えて日本の憲法第9条を守る署名活動を始めたというのです。スペイン、フランス、ドイツ、ベルギー、イタリア、カナダなど各国にいる、彼の長年の合気道の仲間や家族、友人たちに、次々と呼びかけました。天とつながる精神や心、魂が望んでいることを行動に移すジョルジュさんに、私たちは大きな感銘を受けました。そして今年(2007年)新年早々に、各国から集められた417名もの署名が、私の手元に送られてきたのです。
また同じ頃、私の知人で、フランスの大きな農家に嫁いでいる日本人の女性から、何年か振りで連絡をもらいました。彼女が嫁いだ農家は、以前に日本のマスコミに何度も紹介された、ブタのし尿でメタンガスを作り自家発電をしているところなのです。彼女の娘さんは、現在、大学院で政治経済を学び、日本にも何度か留学しています。その娘さんが、日本とフランスの架け橋になりたいと選んだ論文のテーマが、「日本の憲法第9条」だと言うのです。日本だけの問題ではなく、年配の人から若い人まで、この平和への願いや精神がつながっていくのだと、大変うれしく思いました。
健康は、自分だけの体や心という殻に閉じこもったものではなく、自然界や平和な世界と一体のものだと思います。
世界中の人々が、憲法第9条の精神を地球の憲法としてとらえたら、21世紀が今までの歴史を乗り越えた戦争の無い平和な世界に生まれ変わるとしたら、過去苦しんだ多くの人たちへの、未来の子どもたちへのどれほどの贈り物になるのでしょうか。まさに、心と体、社会、地球の健康な姿であると思います。
平和への祈りはどこまでも
今日は野口先生のご命日です。
先生が、イスラエルで戦争が始まった時、「友人がいます。地球の痛みとして、とてもつらいことです」とお話しされていたことが思い出されます。
参議院選挙が7月10日、今日、6月22日は告示です。
最近の投票率は40%ほど、特に若者の投票率は他国と比べると非常に低くなっています。
若い人たちにとっては、自分たちの将来や生活、命に関わる平和憲法は特に大事なことなのですが、徴兵制や戦争に繋がるという危機感は薄いようです。
群馬では
『全国初お笑い芸人が選挙授業 たかまつななさんの「笑下村塾」全79高校対象』と上毛新聞で見ました。
若者が正しく思考することで選挙に臨んで、ウソやごまかしのない平和で格差の無い未来の政治を選んで欲しいと願います。
以前、雑誌「虹」に掲載し、また「女性のための自分で治る整体法」(野村奈央著・ソニーマガジンズ)にも書いた内容を以下にご紹介したいと思います。
本の出版はもう15年くらい前になりますが、今もその思い続いています。
この文章が多くの方の心に届き、平和な日本であることの力となっていくことを心から望みます。
*少し長い内容になりますので、2回にわけます。
日本の希望、世界の宝「憲法第9条」
平和を願う心
今憲法改正問題がさかんに議論されていますが、ある年の年賀状に93歳になる母が、こんな短歌をつくりました。
われ千鶴子 鶴は千年
ことわざに
われもまだ生き 9条まもる
母は教師として、教え子を戦場に送ってしまったつらい体験があり、戦後はひたすら平和を願い、平和のための活動を続けてきました。
終戦の年、昭和20年4月5日に産まれた私は、母のお腹にいて、防空壕に逃げたりする大変な状況の中で生を与えられました。8月5日、群馬県前橋は空襲を受け、街は一面火の海となり、焼け野原の中、私達家族は奇跡的に命を守られました。翌6日には広島、9日には長崎に原爆が落とされ、戦争は終わりました。後に、前橋も原爆投下の候補地だった事を聞きました。その日、前橋は曇っていたため、広島に原爆が落とされ、数十万の人々が亡くなったのです。私はそのことにとても大きな衝撃を受け、その後の人生にも大きな影響を受けました。母から、戦争の悲惨さを聞いて育った私は、再び戦争があってはいけないと思い続けてきました。
日本の憲法第9条は、人間の体に例えると、生命のもとに当たる背骨です。何がなんでも守り広げていきたい、そんな思いがこのところとくに募ってきています。ドイツに住む友人のミカエル・ロッターさんより、こんなメールが届きました。「憲法第9条は、大変素晴らしいと思う。ドイツには、はっきり、戦争をしないと明記した憲法が無い。ドイツも重要な時期に来ているので第9条を広げたい」という内容でした。
私達日本人にとって、憲法第9条は精神と魂の核です。平和憲法の精神を大きく広げ、その実践が、世界諸国の平和憲法の成立へとつながり、戦争の無い地球になる事を、新年に当たり願ってやみません。
平和に対する母の思いをつづった文章を紹介します。
「初めて見た母の涙」
1945年8月15日・・・・朝から太陽がじりじり照りつけていた。欅の大木でミンミン蝉がうるさく鳴いていた・正午に玉音放送があると予告されていたので、母と私は何も手につかずその時を待っていた。いよいよ放送という時に生後4か月の娘が泣きだした。
外の木陰で娘をあやしてから家に入ると、母の姿はどこにもなかった。家の裏手に出て、杏の木の下の縁台にようやく母の姿を見つけた。母は無言のままただただ泣いていた。私が見た初めての母の涙だった。母は出兵していた3人の息子の安否を気遣い、胸がつぶされそうな思いだったに違いない。
2番目の弟は、45年10月中旬に帰還した。母の笑顔を久しぶりに見た。しかし、後の2人の弟の消息は不明のまま月日は過ぎていった。母は毎日2人の写真に向かっては祈っていた。
私はそれまで小学校だけでなく青年学校でも教えることがあった。軍国主義教育の片棒を担いでしまったことに対する心の痛みは、2人の弟を待つ日々にあって募るばかりであった。46年3月に教職を退いた。
その年の11月、日本国憲法が公布された。日本は軍隊の無い国になる。信じられないような文言が並んでいた。理解するにつれ感動が沸き上がってきた。
48年4月、私は2男を出産した。憲法公布2年後に生まれたこの子に「憲二」と名付けた。この子を戦場に送ることは絶対ないのだと思うと、それだけで幸福感に包まれた。そのたびに憲法を読み返した。
「また教職に戻りたい。この憲法のもとで教師をやってみたい」という気持ちがしだいにふくらんでいった。
私がそんな思いになっていた48年11月、突然、末の弟が帰ってきた。そして1カ月後になんと上の弟が戻ってきた。2人とも逃避行、シベリアでの捕虜生活を経ての期間であった。2人の話を聞くにつけ、無事の帰還は奇跡としか思えなかった。母はうなずいて聞くばかりであった。その母は息子3人がそろったことに安心したのか51年、メーデーの日に他界した。
今また日本を軍隊の持てる国にしようとする動きが強まっている。93歳の私に残された命は限られている。孫やひ孫に残せるこれ以上ない遺産は憲法第9条だと思っている。「9条の会」に出かける道すがら、必ず思い浮かぶのはあの杏の木の下で無言のまま涙を流していた母の姿である。
(「日本国憲法と私」群馬県の明日をひらく革新懇話会編より、2006年刊)
先生が、イスラエルで戦争が始まった時、「友人がいます。地球の痛みとして、とてもつらいことです」とお話しされていたことが思い出されます。
参議院選挙が7月10日、今日、6月22日は告示です。
最近の投票率は40%ほど、特に若者の投票率は他国と比べると非常に低くなっています。
若い人たちにとっては、自分たちの将来や生活、命に関わる平和憲法は特に大事なことなのですが、徴兵制や戦争に繋がるという危機感は薄いようです。
群馬では
『全国初お笑い芸人が選挙授業 たかまつななさんの「笑下村塾」全79高校対象』と上毛新聞で見ました。
若者が正しく思考することで選挙に臨んで、ウソやごまかしのない平和で格差の無い未来の政治を選んで欲しいと願います。
以前、雑誌「虹」に掲載し、また「女性のための自分で治る整体法」(野村奈央著・ソニーマガジンズ)にも書いた内容を以下にご紹介したいと思います。
本の出版はもう15年くらい前になりますが、今もその思い続いています。
この文章が多くの方の心に届き、平和な日本であることの力となっていくことを心から望みます。
*少し長い内容になりますので、2回にわけます。
日本の希望、世界の宝「憲法第9条」
平和を願う心
今憲法改正問題がさかんに議論されていますが、ある年の年賀状に93歳になる母が、こんな短歌をつくりました。
われ千鶴子 鶴は千年
ことわざに
われもまだ生き 9条まもる
母は教師として、教え子を戦場に送ってしまったつらい体験があり、戦後はひたすら平和を願い、平和のための活動を続けてきました。
終戦の年、昭和20年4月5日に産まれた私は、母のお腹にいて、防空壕に逃げたりする大変な状況の中で生を与えられました。8月5日、群馬県前橋は空襲を受け、街は一面火の海となり、焼け野原の中、私達家族は奇跡的に命を守られました。翌6日には広島、9日には長崎に原爆が落とされ、戦争は終わりました。後に、前橋も原爆投下の候補地だった事を聞きました。その日、前橋は曇っていたため、広島に原爆が落とされ、数十万の人々が亡くなったのです。私はそのことにとても大きな衝撃を受け、その後の人生にも大きな影響を受けました。母から、戦争の悲惨さを聞いて育った私は、再び戦争があってはいけないと思い続けてきました。
日本の憲法第9条は、人間の体に例えると、生命のもとに当たる背骨です。何がなんでも守り広げていきたい、そんな思いがこのところとくに募ってきています。ドイツに住む友人のミカエル・ロッターさんより、こんなメールが届きました。「憲法第9条は、大変素晴らしいと思う。ドイツには、はっきり、戦争をしないと明記した憲法が無い。ドイツも重要な時期に来ているので第9条を広げたい」という内容でした。
私達日本人にとって、憲法第9条は精神と魂の核です。平和憲法の精神を大きく広げ、その実践が、世界諸国の平和憲法の成立へとつながり、戦争の無い地球になる事を、新年に当たり願ってやみません。
平和に対する母の思いをつづった文章を紹介します。
「初めて見た母の涙」
1945年8月15日・・・・朝から太陽がじりじり照りつけていた。欅の大木でミンミン蝉がうるさく鳴いていた・正午に玉音放送があると予告されていたので、母と私は何も手につかずその時を待っていた。いよいよ放送という時に生後4か月の娘が泣きだした。
外の木陰で娘をあやしてから家に入ると、母の姿はどこにもなかった。家の裏手に出て、杏の木の下の縁台にようやく母の姿を見つけた。母は無言のままただただ泣いていた。私が見た初めての母の涙だった。母は出兵していた3人の息子の安否を気遣い、胸がつぶされそうな思いだったに違いない。
2番目の弟は、45年10月中旬に帰還した。母の笑顔を久しぶりに見た。しかし、後の2人の弟の消息は不明のまま月日は過ぎていった。母は毎日2人の写真に向かっては祈っていた。
私はそれまで小学校だけでなく青年学校でも教えることがあった。軍国主義教育の片棒を担いでしまったことに対する心の痛みは、2人の弟を待つ日々にあって募るばかりであった。46年3月に教職を退いた。
その年の11月、日本国憲法が公布された。日本は軍隊の無い国になる。信じられないような文言が並んでいた。理解するにつれ感動が沸き上がってきた。
48年4月、私は2男を出産した。憲法公布2年後に生まれたこの子に「憲二」と名付けた。この子を戦場に送ることは絶対ないのだと思うと、それだけで幸福感に包まれた。そのたびに憲法を読み返した。
「また教職に戻りたい。この憲法のもとで教師をやってみたい」という気持ちがしだいにふくらんでいった。
私がそんな思いになっていた48年11月、突然、末の弟が帰ってきた。そして1カ月後になんと上の弟が戻ってきた。2人とも逃避行、シベリアでの捕虜生活を経ての期間であった。2人の話を聞くにつけ、無事の帰還は奇跡としか思えなかった。母はうなずいて聞くばかりであった。その母は息子3人がそろったことに安心したのか51年、メーデーの日に他界した。
今また日本を軍隊の持てる国にしようとする動きが強まっている。93歳の私に残された命は限られている。孫やひ孫に残せるこれ以上ない遺産は憲法第9条だと思っている。「9条の会」に出かける道すがら、必ず思い浮かぶのはあの杏の木の下で無言のまま涙を流していた母の姿である。
(「日本国憲法と私」群馬県の明日をひらく革新懇話会編より、2006年刊)
「いまはむかし」映画のご紹介
2月19日から、伊勢真一監督の新作映画「いまはむかし」の上映が前橋シネマハウスでありました。
2020年1月の「えんとこの歌」の上映から2年。この期間、コロナ禍で上映はどこもキャンセル。監督にとっても大変な時期だったと舞台挨拶で語っていらっしゃいました。
上映初日、小ホールは25名の満席となりました。友人、知人、「えんとこ」からのご縁もつながり会場はよい雰囲気に満ちていました。
私の全く知らなかった日本のインドネシアでの戦争。伊勢監督のお父様(伊勢長之助さん)の撮影した数々のフィルムがオランダのアーカイブスに驚くほど多く保管されていたのです。このドキュメンタリー製作は、30年かけた歴史に残る大作です。
映画の中で、当時3歳だった伊勢監督がお父さんのひざに抱かれこちらを見ていました。
3歳でご両親がわかれてからの70年の歴史が蘇り、浄化されていくかのようでした。
今も世界でつづく戦争や紛争。いつ何があっても不思議ではない危機的状況があります。
映像の最後は、お父さんの残した東京裁判の映像と、そして平和憲法が大きく映し出されました。もう戦争はこりごりだと、あの時代の人たちの骨の髄からの叫びが聞こえてきました。
今こそ、平和憲法9条の尊さを日本中の人が守り生かし伝えていかなければと強く思います。
伊勢家は3代に渡って映画製作に関わっています。大事なことが語り継がれているのだと思います。
以下は伊勢真一監督のホームページの「カントクのつぶやき」からです。
二〇二一年十一月 「映画祭の旅」
「Films never forget. Humans will forget, but films remember forever. 」
人間は忘れる… けれどもフィルムは決して忘れない。
映画『いまはむかし』の中で私が思わず呟いている“名言”をオランダ・アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭の上映後のスピーチで、英語で語りかけた…。ヘボカントクの下手くそな英語にもかかわらず、オランダのお客さんの心に響いたようだ。
アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭は世界最大規模のドキュメンタリー映画祭で、今年は220本の作品が上映された。
日本からは我が『いまはむかし』がノミネート、三回の上映とトークに立ち会い、確かな手応えを受け取ることが出来た。
いつものように「誰も来なかったら、どうしよう…」という不安でいっぱいだった私の弱気を吹き飛ばすように、お客さまはぞくぞく詰めかけ、三回目の上映は二日前にソールドアウトだった。上映後の反応も凄かった。トークの後も、拍手が鳴り止まないようだった。私の作品に対して特に、というよりも、創り手に寄せる敬意の在り方が、日本よりも強いのかもしれない。『いまはむかし』はオランダのフィルムアーカイブが80年近くにわたって、父・伊勢長之助たちがジャワで製作したプロパガンダ映画を保存・管理し続けてくれたことで成立した映画だ。
何故、ジャワ(今のインドネシア)で製作した父たちの映画が、オランダに在ったかと言えば、当時ジャワはオランダの植民地で、そこを日本が3年半にわたり占領・支配し、1945年終戦時に戦勝国であるオランダが130本余りのプロパガンダ映画を接収した、という歴史があったからだ。それにしても、言わば敵国のフィルムを長きにわたってしっかり管理してくれたことに、感謝しないわけにはいかない。そのことをスピーチで真っ先に伝えた。
今回の上映で今更ながら自覚したのは、『いまはむかし』はフィルムが記録し続けた事実を伊勢家三代(長之助、真一、朋矢、佳世)にわたって物語った稀有な映画である…ということだ。
戦時中、80年近く前に父たちが創ったプロパガンダ映画であり、戦後間もなく73年程前に父がプロパガンダ映画を創っていたスタッフと共に製作した『世紀の判決−ニュース特報・東京裁判』の二本の遺されたフィルムがあってはじめて成立したドキュメンタリーである。
戦争を進めるためのジャワでのプロパガンダ映画と、戦争を批判する極東軍事裁判の記録、相反する内容の二作の記録映画を共に手がけた、父・伊勢長之助の存在を通して、戦争のことを考える。
他人事ではなく、自分事として、戦争のことを映像化する。
父をいとおしむ気持ちを込めながら、あの戦争の時代の「真実」を描くドキュメンタリーは可能だろうか…。
戦争の歴史を繰り返し体験してきたオランダをはじめヨーロッパの人々にとって、戦争は「いま」の課題そのものなのだと思った。
「Now is the Past」(いまはむかし) … The Past is Now(むかしは いま)
海外での反響はもちろん嬉しいが、この映画は今の日本でこそ、日本人の一人ひとりに届けなければならない映画であることを痛感した映画祭の旅だった。
ぜひ、映画を観てほしい。 ぜひ、映画を上映してほしい。
2020年1月の「えんとこの歌」の上映から2年。この期間、コロナ禍で上映はどこもキャンセル。監督にとっても大変な時期だったと舞台挨拶で語っていらっしゃいました。
上映初日、小ホールは25名の満席となりました。友人、知人、「えんとこ」からのご縁もつながり会場はよい雰囲気に満ちていました。
私の全く知らなかった日本のインドネシアでの戦争。伊勢監督のお父様(伊勢長之助さん)の撮影した数々のフィルムがオランダのアーカイブスに驚くほど多く保管されていたのです。このドキュメンタリー製作は、30年かけた歴史に残る大作です。
映画の中で、当時3歳だった伊勢監督がお父さんのひざに抱かれこちらを見ていました。
3歳でご両親がわかれてからの70年の歴史が蘇り、浄化されていくかのようでした。
今も世界でつづく戦争や紛争。いつ何があっても不思議ではない危機的状況があります。
映像の最後は、お父さんの残した東京裁判の映像と、そして平和憲法が大きく映し出されました。もう戦争はこりごりだと、あの時代の人たちの骨の髄からの叫びが聞こえてきました。
今こそ、平和憲法9条の尊さを日本中の人が守り生かし伝えていかなければと強く思います。
伊勢家は3代に渡って映画製作に関わっています。大事なことが語り継がれているのだと思います。
以下は伊勢真一監督のホームページの「カントクのつぶやき」からです。
二〇二一年十一月 「映画祭の旅」
「Films never forget. Humans will forget, but films remember forever. 」
人間は忘れる… けれどもフィルムは決して忘れない。
映画『いまはむかし』の中で私が思わず呟いている“名言”をオランダ・アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭の上映後のスピーチで、英語で語りかけた…。ヘボカントクの下手くそな英語にもかかわらず、オランダのお客さんの心に響いたようだ。
アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭は世界最大規模のドキュメンタリー映画祭で、今年は220本の作品が上映された。
日本からは我が『いまはむかし』がノミネート、三回の上映とトークに立ち会い、確かな手応えを受け取ることが出来た。
いつものように「誰も来なかったら、どうしよう…」という不安でいっぱいだった私の弱気を吹き飛ばすように、お客さまはぞくぞく詰めかけ、三回目の上映は二日前にソールドアウトだった。上映後の反応も凄かった。トークの後も、拍手が鳴り止まないようだった。私の作品に対して特に、というよりも、創り手に寄せる敬意の在り方が、日本よりも強いのかもしれない。『いまはむかし』はオランダのフィルムアーカイブが80年近くにわたって、父・伊勢長之助たちがジャワで製作したプロパガンダ映画を保存・管理し続けてくれたことで成立した映画だ。
何故、ジャワ(今のインドネシア)で製作した父たちの映画が、オランダに在ったかと言えば、当時ジャワはオランダの植民地で、そこを日本が3年半にわたり占領・支配し、1945年終戦時に戦勝国であるオランダが130本余りのプロパガンダ映画を接収した、という歴史があったからだ。それにしても、言わば敵国のフィルムを長きにわたってしっかり管理してくれたことに、感謝しないわけにはいかない。そのことをスピーチで真っ先に伝えた。
今回の上映で今更ながら自覚したのは、『いまはむかし』はフィルムが記録し続けた事実を伊勢家三代(長之助、真一、朋矢、佳世)にわたって物語った稀有な映画である…ということだ。
戦時中、80年近く前に父たちが創ったプロパガンダ映画であり、戦後間もなく73年程前に父がプロパガンダ映画を創っていたスタッフと共に製作した『世紀の判決−ニュース特報・東京裁判』の二本の遺されたフィルムがあってはじめて成立したドキュメンタリーである。
戦争を進めるためのジャワでのプロパガンダ映画と、戦争を批判する極東軍事裁判の記録、相反する内容の二作の記録映画を共に手がけた、父・伊勢長之助の存在を通して、戦争のことを考える。
他人事ではなく、自分事として、戦争のことを映像化する。
父をいとおしむ気持ちを込めながら、あの戦争の時代の「真実」を描くドキュメンタリーは可能だろうか…。
戦争の歴史を繰り返し体験してきたオランダをはじめヨーロッパの人々にとって、戦争は「いま」の課題そのものなのだと思った。
「Now is the Past」(いまはむかし) … The Past is Now(むかしは いま)
海外での反響はもちろん嬉しいが、この映画は今の日本でこそ、日本人の一人ひとりに届けなければならない映画であることを痛感した映画祭の旅だった。
ぜひ、映画を観てほしい。 ぜひ、映画を上映してほしい。
春の植林と平和への祈り
3月春分の時季まだ木の芽が出ないうちに、私の77歳の誕生日の記念として桜10本とライラックを整体っ子8人、大人9人で植林しました。
桜はしだれ桜、八重桜、黄桜、河津桜、御殿場桜など、いろんな種類の立派な苗木を畑の会の人たちが用意してくれました。
25年前から数年間、「森林(やま)の会」の活動の一環としての植林で、前橋営林局の職員だった森の専門家、宮下さん、津久井さんに木の植え方の手順を丁寧に教わりました。その植え方はS君に受け継がれ、一つ一つの説明が蘇り、先輩たちの声が聞こえるようでした。
10歳のRくんとTくんは腰もしっかりしてきて、シャベルの使い方も上手に植林し、他の子供たちも苗木に声をかけ、楽しい笑い声が青空に届くようでした。
昨年から大人の男性たちがシノ刈りをしたり、当日も植林の準備をしてくれて助かりました。
また翌週の日曜は赤城のどんぐりから育てた30センチほどの苗木18本を持って、シュタイナーシューレの6年生4人、大人2人がやってきました。前の週に参加した大人の応援と子どもたちも合流して再び植林です。
5年後10年後20年後、この子供たちと共に木は育ちます。その時この地球はどうなっているのでしょうか。平和の希望の森作りです。
今のウクライナでの戦争、そして地球のあちこちで起きてきた紛争や戦争の状況があります。日本では77年前、私の生まれた年に広島・長崎に原爆が落とされました。人類はそこから学び進歩したと言えるのでしょうか?
野村昇平先生の出版した「国の理想と憲法‐『環境平和国家』への道」とその英語版「ビヨンド・ナショナル・エゴイズム」の内容は全人類の希望になります。
国のエゴイズムを超えて仲良く協力するしか地球は存在できない。人類はギリギリまで来てしまいました。希望はこの提案にあります。
桜はしだれ桜、八重桜、黄桜、河津桜、御殿場桜など、いろんな種類の立派な苗木を畑の会の人たちが用意してくれました。
25年前から数年間、「森林(やま)の会」の活動の一環としての植林で、前橋営林局の職員だった森の専門家、宮下さん、津久井さんに木の植え方の手順を丁寧に教わりました。その植え方はS君に受け継がれ、一つ一つの説明が蘇り、先輩たちの声が聞こえるようでした。
10歳のRくんとTくんは腰もしっかりしてきて、シャベルの使い方も上手に植林し、他の子供たちも苗木に声をかけ、楽しい笑い声が青空に届くようでした。
昨年から大人の男性たちがシノ刈りをしたり、当日も植林の準備をしてくれて助かりました。
また翌週の日曜は赤城のどんぐりから育てた30センチほどの苗木18本を持って、シュタイナーシューレの6年生4人、大人2人がやってきました。前の週に参加した大人の応援と子どもたちも合流して再び植林です。
5年後10年後20年後、この子供たちと共に木は育ちます。その時この地球はどうなっているのでしょうか。平和の希望の森作りです。
今のウクライナでの戦争、そして地球のあちこちで起きてきた紛争や戦争の状況があります。日本では77年前、私の生まれた年に広島・長崎に原爆が落とされました。人類はそこから学び進歩したと言えるのでしょうか?
野村昇平先生の出版した「国の理想と憲法‐『環境平和国家』への道」とその英語版「ビヨンド・ナショナル・エゴイズム」の内容は全人類の希望になります。
国のエゴイズムを超えて仲良く協力するしか地球は存在できない。人類はギリギリまで来てしまいました。希望はこの提案にあります。
未来に続く里山の風景
新年、明けましておめでとうございます。
先日NHKの番組を観ました。
「こころの時代~小さな命大いなるいのち~写真家 今森光彦」
今森さんは写真家です。
27年前に日本の美しい里山の写真集を出版されています。
棚田や色鮮やかな菜の花畑、道端の野仏、美しい森の風景がありました。
しかしその後、写真集の中の多くの里山の風景は、次々とブルドーザーで壊され、今では7割ほどが消えてしまったそうです。
今森さんは、そのことに衝撃を受け、自ら滋賀県の田舎に住み、荒れた3ヘクタールの土地を手に入れ、仲間たちや企業に協力してもらい時間をかけ整備していきました。
植林して動物や昆虫もやってくる自然を回復してゆきます。
土地が自然の環境になると、他の営みも元に戻ってくるのです。
今森さんは自然の環境を守っていく農家のことを「環境農家」と呼んでいましたが、まさにピッタリの言葉だと思いました。
私たちも35年ほど前から、牧草とシノ林の、カチカチの固い荒れた土地からはじめましたが、今では畑はフカフカの柔らかい土になり、蝶々が舞い、たくさんの小鳥や動物がやってきます。
一方、山では樹齢80年以上の太い幹のりっぱな山桜やさまざまな木々が、あっという間に伐採されたり、森が急激な勢いで失われていっている状況があります。
経済と目先のことで、取りかえしのつかないことが行われているのです。
赤城山は日本でも有数のすそ野の広い美しい山です。
森や水、空気、大地は人間にとって、またすべての生き物にとっての命の源です。
この国の未来は、野村昇平先生の提唱する「国際環境平和国家」を目指す方向以外にはないと、改めて強く感じた新年でした。