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教育に思うこと


競争社会の中で大人にとっても、どのような教育が大切なのか、
わかりにくい時代になっています。

体験なしの知識の詰め込み教育が多いように感じます。
その結果、心身の成長段階に大変影響が出ています。

私は、高校から東京の玉川学園で学びました。

玉川、和光、成城の私学が、
戦前から日本の新教育をめざしてきました。

今でもその流れはとても大事なものだと思います。

私の母は、教育を大切にしていました。
その母が、玉川を選んでくれました。

今、私の弟が和光中学・高校の校長をしています。

3月末の中学校の卒業式での式辞に母のことを話していました。
ご参考にご紹介させていただきます。

少し長くなりますが、お読みいただけると幸いです。 

野村奈央  



 今日、和光中学校を卒業する皆さん、卒業おめでとうございます。
 ご参列いただいた保護者の皆さん、お子さんの卒業、おめでとうございます。


 私が君たちに授業らしいものをしたのは、昨年5月16日の総合学習でした。映画『翼は心につけて』を鑑賞する前の週に、「私にとっての『翼は心につけて』」といった感じで、1時間ほど話しましたね。最後に「あの映画がなければ、私は、教員をやめていたかもしれない。『翼は心につけて』は、私にとって、それくらい大きな意味を持つ映画です」と話しました。

 今日は、私が教師をつづけるか、やめるか以前の、どうして北海道の公立高校の教員になれたのか、という話をしたいと思います。少し難しい言葉もありますが、聞いてください。

 『翼は心につけて』の話の最初に、私はホワイトボードに北海道地図を描きました。そして、焼尻島を描き足して、1973年に、私が焼尻島の焼尻高校で教員生活をスタートさせたと話したのをおぼえていますか?
 焼尻島は周囲12km、人口1000人足らずの小さな島でした。焼尻高校は全校生徒20人・教員9人の北海道一小さな高校でした。
 ある晩、気がつくと、職員室にはN教頭と私の2人きりになっていました。仕事の手を休めたN教頭が


「両角さん、大学時代、学生運動をやっていたんだって。函館水産高校のT校長から聞いたよ」  

 と、唐突に話しかけてきました。
 学生運動という言葉は最近ほとんど聞かれなくなりましたが、大学生の運動=スポーツということではありません。自治会活動と、沖縄返還や70年安保といった政治課題についての運動のことです。ただし、過激派ではなかったことはお断りしておきます。
 N教頭とT校長は新人教員時代の同僚で20年来の友人という関係でした。N教頭は、


「なぜ、あなたが教員採用試験に合格できたのか?T校長から聞いたよ」

 と話してくれました。学生運動の中心にいた者は公立高校教員採用試験でまず100%不合格にされる時代でした。
 当然のことのように「両角は採用しない方が無難」となった時に、T校長が「そんなことは問題ではない」「イエスマンだけ集めて良い教育はできない」と猛然と反論してくれたのだそうです。そして、T校長は、私の聾唖…耳と言語の障がい…学校見学記をかざし


「これだけ教育の本質に迫る感想文を書ける現職教員が、北海道に何人いるのだ?」

 と言ってくれたそうです。T校長は若くして文部省教科調査官を務め、40才にして校長になったエリート中のエリートです。そのT校長がそこまで言うなら、ということで、私の採用が決まったそうです。


「そうか、俺はT校長のおかげで教員になれたのか?」

と、T校長の顔を思い浮かべました。そして、文章を書くことの重みも知りました。

 聾唖学校見学記……それは、函館水産高校で教育実習を行ったときに書いたものでした。T校長は実習生5人に半日の聾唖学校見学を課し、見学記の提出を求めました。
 聾唖学校で行われていた教育は、実に衝撃的でした。太鼓の音に合わせて一歩一歩歩く訓練、2人が向き合ってお互いの口を見ながら50音や単語を言い合う授業……、子どもたちの能力をどう引き出すか、教師と生徒の間で繰り広げられていた営みは真剣そのものでしたが、教室は喜びに満ちていました。私はその感動も加えながら、「ここに教育の原点があるように思った」で、見学記をまとめました。かなりの枚数になっていました。しかし、翌日、他の4人は提出しましたが、私は提出できませんでした。私は、数日かけて父と母のことを書き足しました。

 私の父は長野県の山村農家の次男でした。後を継ぐ田畑はなく、15才で群馬師範学校に進み、そのまま群馬県の小学校の教員になりました。機械化されていなかった当時の農家では、10才も過ぎれば一人前の働き手として扱われたはずです。師範学校を受験するための勉強時間をどうつくり出したのか、疲れた体にどれだけ鞭打ったのか、父はあまり語ることはありませんでした。
 そんな父でしたから、その気になればいくらでも受験勉強する時間があるのに、そうしない息子のことを、いかにも歯がゆく感じていたと思います。
 私は中学・高校時代、バスケ少年でした。高校3年生の7月までバスケに熱中していました。私の学んだ高校で、その時期までクラブをつづける生徒は1割もいませんでした。まわりが本格的に受験態勢に入り、テストの度に徐々に成績が低下していく私が、


「山の僻地の学校の先生になろうかな」

 と言ったことがありました。
 その時の父は「息子は、教員という仕事をそれなりに評価しているのだ」と思ったのか、半分は嬉しそうな表情、もう半分は「いくらでも勉強する時間があるのに、なぜ、がんばろうとしないのだ。情けない」といった悲しそうな表情を示しました。そして、


「本当にその気があるなら、聾唖学校の見学に一緒に行こう」

 と言ったのでした。
 結局、私は見学に行けませんでした。聾唖者に対する好奇心や、安易な同情心が顔に出てしまうのではないか、という不安があったからでした。
 私には、小学校3、4年生の頃に、近所の聾唖者をからかって、母からこっぴどく叱られた経験がありました。そのことを父はもちろん知っていました。だから、「聾唖学校の見学に行こう」と言った父の真意を推し量れませんでした。

 母からこっぴどく叱られた思い出は、こうでした。
 私の家の目の前が児童公園でしたが、朝からブランコや滑り台で遊んでいる少年がいました。体つきからして、小学校6年生か、中学生のように見えました。その少年は、夕方まで遊んでいました。「おかしいな」とは思いつつ、交わることはありませんでした。
 私はいつも5、6人の子分をひきつれて歩くガキ大将でしたが、ある日、先代のガキ大将だった中学生から


「あの子に向かってこうやってごらん。それであの子が怒って追いかけてきたら、こうやってごらん」

 と2つの手話を教えられました。
 私と子分たちは、ブランコに乗っているその少年の目の前に行き、1つ目の手話をやりました。少年は「アー、アー」と言葉にならない声をあげ、ブランコから降りようとしました。私たちは逃げ、少年は追いかけてきました。そこで、私たちは振り返り2つ目の手話をしました。少年は「ウー、ウー」とうなづき、ブランコに戻っていきました。私たちは、それを何度かくりかえしました。あとで知りましたが、1つ目の手話は「バカ」、2つ目の手話は「お利口さん」でした。
 それを小学校の教員であった母が、家庭訪問途中に見たのでしょうか?それとも誰かに告げられたのでしょうか?
 その晩、母は私を正座させて、


「憲二、あの子は好きで耳が聞こえないのではない。好きで学校に行かないのではない。行きたくても行けないのだ」

「いくら勉強ができても、いくらスポーツが得意でも、障がいのある者や弱い者をバカにするような子は人間のクズだ。それがわからないなら、憲二はおかあさんの子ではない」

 と、言ったのでした。
 手をあげられたわけではありません。大きな声で怒鳴られたわけでもありません。しかし、あれほど恐ろしかったことはありませんでした。
 ガキ大将をやっていると、他の地区への遠征=冒険も組まなくてはいけません。そのとき、その地域のガキ大将グループとこぜりあいになったり、石の投げ合いになったりすることがありました。その結果、相手にけがを負わせることもありました。そして、けがをした子どもの親が怒鳴りこんでくることもありました。最後に「先生の子のくせに、いったいどうなってるんだ」というセリフが残されましたが、しかし、そのことで怒られた記憶はありません。事情を話すと、大体が「お互い様だったんだね。でも、石を投げるのだけはやめなさい」と言われるくらいでした。そして、


「“先生の子のくせに”と言われても、憲二が気にすることはないよ。お母さんは、憲二から頼まれて先生をやっているわけではないからね。お母さんは自分の好きで学校の先生をやっているのだからね」

 で終わりでした。そんな母からの叱責でしたから、強い恐怖感を覚えたのでしょう。

 聾唖学校見学記に、そうしたことも書き、


「今なら、あのとき、なぜ父が“聾唖学校の見学に一緒に行こう”と言ったのか、理解できる気がする。“親の心、子知らず”とはよく言ったものである」

 と締めくくり、提出しました。

 私は、聾唖学校見学記を思い返しながら、T校長のおかげだけで教員になれたわけではなく、父と母のおかげもあって教員になれたのだということを自覚しました。
 「自分一人の力で教員になれたわけではない」という思いは、その後の私の教員生活で大きな力になりました。苦しいとき、投げ出したくなるときに、この言葉で踏みとどまることができたように思います。

 別れのときがきました。君たちが思春期のトンネルを抜けるには、まだまだ時間が必要でしょう。親のいうことに反発したり、反抗したり、無視したり……がもう少し続くかもしれません。思春期は、大人に反発しながら、大人を否定しながら、大人になっていく、そんな矛盾に満ちた時代なのです。
 そんな日々にあって、時に「自分一人の力でここまで育ったのではない」と思い返してみてください。お父さん、お母さんから、あるいは担任の先生や星野先生から叱られた日のことを思い出し、その意味を改めて考えてみてください。逆にほめられた日のことについても同様にしてみてください。そこから見えて来るものが、きっとあると思います。そのことが、将来、どこかで生きるかもしれません。私のように将来につながるかもしれません。
 和光中学校で過ごした日々、和光中学校で学んだこと、和光中学校で体験したこと、和光中学校で得た友だち……、それらが君たち一人ひとりにとっての宝物=生きる力となることを願っています。
 新しい場所で、新しい仲間と、ともに幸福になるためにともに学んでください。ともに困難に立ち向かっていってください。 さようなら。元気で。

2014年3月15日

和光中学校 校長  両角 憲二
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プロフィール

野村奈央

Author:野村奈央
1945年群馬県生まれ。玉川大学卒業後、野口整体の創始者、野口晴哉氏と出会い、最悪の健康状態から回復。以来41年、整体を研究、実践している。「整体ライフスクール」主宰、指導を続けている。現在は赤城山山麓に暮らし、無農薬の畑作りや深水法による稲作、ブナの植林など通じ環境問題にも取り組む。

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