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戦争を語り継ぐ

昭和20年8月5日  
前橋は空襲で火の海となり焼け野原になりました。
中でも広瀬川の橋近くの防空壕では何十人もの人が亡くなりました。

毎年この日の夕方に、昔の教職員の人たちが始めた追悼式と語る会が慰霊碑の前で行われます。
数年前、私の母も語る会で自身の戦争体験を語りました。

今年の8月5日。
少し早目に会場へ行ってみると千羽鶴とお花が用意されていました。
そこに一人の若い女性が手を合わせていました。
話しかけますと彼女は前橋女子高校の演劇部の卒業生で、演劇部が毎年行っている前橋空襲を題材にしたオペラを演じた人でした。

彼女は「学生時代戦争があったことを知らなかったことが恥ずかしい。
オペラを演じるのに知らないと表現できませんでした。
私たちの世代は戦争を知りません。
学んで語り継いでいこうと思います」とハッキリ自分の意思を伝えてくれました。
前橋空襲を語り継ぐ証言集をお送りすることを約束しました。

私は心の中で母に語りました。
「お母さん、若い人も戦争の悲惨さ、再び戦争があってはいけない、
平和憲法の大切さを伝えようとしている人がいますよ。
お母さんが通っていた前橋女子高校の後輩です」
と伝えました。

午後4時45分。前橋の町にお寺と教会の鐘の音が響き渡りました。

ここに母が寄稿したものをご紹介します。

「校庭は焼夷弾の林だった」

私の実家は三人の弟全員戦争にとられ、母と末妹の二人暮らしになっていたので、私達家族は昭和19年4月より川原町の実家へ疎開した。
昭和20年4月5日の夜も空襲警報が発令された。
小雨降る肌寒いこの夜、灯火管制下の暗い部屋で私の娘は誕生した。
教師であった夫は学校の奉安殿警備の任務につくために学校へと走り、
母と小学生の妹は闇夜をお産婆さん宅へと急いだ。
私は一人ぼっちで1時間近くも暗い部屋で頑張っていた。
お産婆さんを待つことなく、逞しくも私のお腹をけってこの戦時下に娘は産声をあげた。

 6月、田植えの季節に入ったある朝、空襲警報なしで突然前橋が空襲を受けたことがあった。
今の国道17号を走っていた渋川行きの電車が朝、上小出辺りで狙われて乗客が避難したとか、クリーニング屋の女の子が機銃掃射の流れ弾で死亡したとかの事は夜になってから聞いたのだった。

この日私達も突然の敵機襲来を受けた。
それは若宮小学校東の田んぼで田植えの真っ最中の時であった。
防空壕へ逃げ込む間もなく私はどろんこの手足で塀にへばりついていた。
その足元をバリバリバリッと低空飛行で機銃掃射を受けた。全身凍りつくような恐ろしさだった。 
 
それ以後連日のようにラジオから警戒警報、空襲警報発令を聞くようになり、防空壕へと避難することが多くなった。
そして恐ろしい8月5日前橋空襲の夜となった。
 
警戒警報発令、息つく間もなく空襲警報発令、アメリカ空軍B29の大編隊による攻撃を受け、焼夷弾投下で前橋市外へ次々と火の手が上がりたちまち広がった。
私は二女を背負い長女を抱えて転がるように防空壕へと逃げ込んだ。どれほど防空壕に居たか記憶が無い。

警報解除のサイレンで外に出たときの異常な光景が今でも鮮明に残っている。
南の前橋市街地は一面の火の海、利根西の漆原か国府方面にも火が広がっていた。
堤ヶ丘飛行場が狙われたのか。
東もまた燃えていた。三方火に囲まれた川原町は幸せなことに空襲からはまぬがれた。
その夜、街から逃げてきた人々で我が家の防空壕は満員であった。
真っ赤に燃え続ける前橋の空、そして東と西の赤い空を眺めながら誰も彼もみんな無言であった。
 
翌朝私は夜明けを待って若宮小学校へと自転車を走らせた。
敷島公園の松林を通り野球場近くになると、きな臭い匂いと共にグランド内に満載されていた軍用物資はまだ燃え続けていた。
公園の松林をぬけて目に入った前橋の街は何と一望できるほどに焼け野原になっていた。

足がすくみ涙も出なかった。
「負けてたまるか」私は深呼吸し気を入れて再び自転車をとばした。
目指す私の勤務校はすでに無惨にもすっかり焼け落ちて、校舎のあちこちからまだ炎がチョロチョロと見え、煙が立ち込めていた。そして広い校庭には焼夷弾が足の踏み場もないほどに林立していた。
そのすさまじい光景は未だに私のまぶたに焼き付いていて消えない。

 次に私は岩神の阿部さん宅へと急いだ。
おじいちゃんと娘さんが呆然と焼け跡に立っていた。
おばあちゃんの姿が見えない。おばあちゃんは逃げ遅れて一人防空壕の中で死んでいたという。
この辺一帯は焼夷弾投下を浴びて火の海だったとのこと。
おばあちゃんは娘さんと二人で8月1日に私のところへ避難していたが、おじいちゃんの事を心配して4日にかえって行ったのだった。そして翌日の大空襲の犠牲になってしまったのである。
 
おじいちゃんは連日黙々と焼け跡の片づけをして、焼木材に焼トタンを打ちつけてのバラック造りの中で、さび釘を踏んで破傷風になった。
そしておばあちゃんのあとを追うように1ヶ月程後に逝かれてしまったのである。




先日前橋シネマハウスで「あの日のオルガン」という映画を観ました。
時代を繋ぐ感動の実話です。
太平洋戦争末期に53人の子どもの命を守った保母さんたちのお話です。
素晴らしい映画です。
ぜひ皆さんおすすめです。

この地球上から国家エゴイズムを超えて戦争が無くなる事。
ネホサの提案は最上の光です。

映画「あの日のオルガン」ホームページ
https://www.anohi-organ.com/


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プロフィール

野村奈央

Author:野村奈央
1945年群馬県生まれ。玉川大学卒業後、野口整体の創始者、野口晴哉氏と出会い、最悪の健康状態から回復。以来、整体を研究、実践している。「整体ライフスクール」主宰、指導を続けている。現在は赤城山山麓に暮らし、無農薬の畑作りや深水法による稲作、ブナの植林など通じ環境問題にも取り組む。

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