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平和への願い
今年の8月15日は75回目の終戦記念日です
幼い頃から戦争がいかに多くの人を苦しめ、家族や社会も根こそぎ変えてしまうかを聞いて育ち、そして実際見てきました。それが平和を創造し伝える今の生き方につながってきています。
戦争体験者が高齢のために、全国の戦争記念館や資料館が相次いで閉鎖になっていると、NHKの「クローズアップ現代」で報道されました。地元、前橋のことも大きく取り上げられました。
毎年、8月5日の前橋空襲の日に、私の母たちの仲間が長年続けてきていました広瀬川の防空壕跡での慰霊祭は、今では町内の自治会も一丸となって動き、この数年は前橋市役所も参加するようになりました。
夕方、4時45分には、全市のお寺や教会の鐘の音、神社の太鼓が同時に鳴り響き、平和の願いが町中を包みます。
今年の式典では、子供たちが平和への誓いの言葉を語りました。
東京新聞、朝日新聞にも掲載されましたので別にご紹介します。
・・・・
先日、50年来の友人Oさんが、アメリカに住むお孫さん、ナイジェル怜君の作文を送ってくれました。怜君のお母さんのMさんは私たちが小田原に住んでいた頃は、まだかわいい赤ちゃんで、だっこして愉気をしていましたので、息子さんの作文には大変感動しました。
皆さんにご紹介します。
例年夏には2カ月間帰国するので、Oさんは怜君とお風呂に入り、「おじいちゃんの一番の願いは、世界中が平和になることだよ」といつも語っていたそうです。
コロナウイルスの時代に、小さく不安で縮こまらず、心を広く世界が一つとなるように、未来に向かって希望を伝え続けることの大切さを、8月15日を迎え改めて思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
広島の原子爆弾投下について
中学部二年一組 マッカリー ナイジェル怜
1945年8月6日8時15分に、広島である爆弾が落とされました。一瞬の内におよそ10万人の人が土に帰りました。これ程の死者と怪我人を出した爆弾を原子爆弾と言います。原子爆弾は、原子の力によって圧倒的な破壊力で広島を一瞬で灰の街にしました。
昨年、ボルトン米大統領補佐官は、原爆投下は「道徳的に正しかった」と発言しました。そして、アメリカ兵の多くの命が危なかったと言っていました。おそらくボルトン補佐官は、原爆を投下したことで、日本が降参したので、結果的に戦争の終結を早めたと言いたかったのでしょう。
しかし、僕は広島の原爆投下は、正しくなかったと思います。原爆が落ちた後も、爆撃を生き抜いた人達に放射能が降り注ぎました。これほどまでに恐ろしい量の放射能が広島の大気上で上空に上がり、雲となって「黒い雨」となり、当時、広島にいたほとんどの人々はこの放射能を浴びました。放射能を浴びると、高い確率で障害が起こりやすくなります。当時の医療では治療の施しようがなく、死を待つしかありませんでした。その爆弾により現在も広島で人は苦しんでいます。事実、僕の曽祖父は、広島市内で原爆に巻き込まれ、黒い雨に打たれて、被爆者となりました。その後に生まれた曽祖父の長男は、白血病で亡くなっています。放射能を浴びると、白血病が高い確率で発生しやすくなります。戦争自体は終結しましたが、放射能による影響はまだ終結していないのです。原子力爆弾は、他の爆弾と違って放射能をまき散らすという性質から、何十年にも渡り、人々を苦しめます。
また、原爆投下を行ったのは、アメリカ兵の多くの命が 危なかったといわれていましたが、アメリカ軍人の命は、日本人の命よりも重いとは思えません。命はすべて尊く、 平等です。さらに原爆は、基地とは無関係の街に落とされ、 多くの一般市民が亡くなっています。現在では、できる限り一般市民が巻き込まれないように配慮して爆弾を落としているようです。
しかも、原爆の公式を作ったアルバート・アインシュタインはこれほどの破壊力を持つ破壊兵器の公式を証明したこと、原爆開発に携わったことを後悔しました。彼はドイツが原爆を完成しそうになったので、対抗して原爆開発に協力しました。それなのにアインシュタインは、原爆使用計画を知らされなかったので、本人は騙されたと思いました。
第二次世界大戦が終わってから70年以上経ちました。そして、約2000回以上の核実験が各国で行われましたが、幸いなことに、それらの核兵器は戦争においてまだ実際使われていません。僕の世代は、戦争がもたらす被害を知りません。知らないことにより問題意識が薄れ、危機感もなくなるかもしれません。そして、核兵器が戦争に使用されることになるかもしれません。恐ろしいことは、歴史や過去から学ばず、問題意識を持たないことだと思います。僕は、これからも原爆が正当化されることなく、戦争で核兵器が使われないことを祈っています。
幼い頃から戦争がいかに多くの人を苦しめ、家族や社会も根こそぎ変えてしまうかを聞いて育ち、そして実際見てきました。それが平和を創造し伝える今の生き方につながってきています。
戦争体験者が高齢のために、全国の戦争記念館や資料館が相次いで閉鎖になっていると、NHKの「クローズアップ現代」で報道されました。地元、前橋のことも大きく取り上げられました。
毎年、8月5日の前橋空襲の日に、私の母たちの仲間が長年続けてきていました広瀬川の防空壕跡での慰霊祭は、今では町内の自治会も一丸となって動き、この数年は前橋市役所も参加するようになりました。
夕方、4時45分には、全市のお寺や教会の鐘の音、神社の太鼓が同時に鳴り響き、平和の願いが町中を包みます。
今年の式典では、子供たちが平和への誓いの言葉を語りました。
東京新聞、朝日新聞にも掲載されましたので別にご紹介します。
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先日、50年来の友人Oさんが、アメリカに住むお孫さん、ナイジェル怜君の作文を送ってくれました。怜君のお母さんのMさんは私たちが小田原に住んでいた頃は、まだかわいい赤ちゃんで、だっこして愉気をしていましたので、息子さんの作文には大変感動しました。
皆さんにご紹介します。
例年夏には2カ月間帰国するので、Oさんは怜君とお風呂に入り、「おじいちゃんの一番の願いは、世界中が平和になることだよ」といつも語っていたそうです。
コロナウイルスの時代に、小さく不安で縮こまらず、心を広く世界が一つとなるように、未来に向かって希望を伝え続けることの大切さを、8月15日を迎え改めて思います。
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広島の原子爆弾投下について
中学部二年一組 マッカリー ナイジェル怜
1945年8月6日8時15分に、広島である爆弾が落とされました。一瞬の内におよそ10万人の人が土に帰りました。これ程の死者と怪我人を出した爆弾を原子爆弾と言います。原子爆弾は、原子の力によって圧倒的な破壊力で広島を一瞬で灰の街にしました。
昨年、ボルトン米大統領補佐官は、原爆投下は「道徳的に正しかった」と発言しました。そして、アメリカ兵の多くの命が危なかったと言っていました。おそらくボルトン補佐官は、原爆を投下したことで、日本が降参したので、結果的に戦争の終結を早めたと言いたかったのでしょう。
しかし、僕は広島の原爆投下は、正しくなかったと思います。原爆が落ちた後も、爆撃を生き抜いた人達に放射能が降り注ぎました。これほどまでに恐ろしい量の放射能が広島の大気上で上空に上がり、雲となって「黒い雨」となり、当時、広島にいたほとんどの人々はこの放射能を浴びました。放射能を浴びると、高い確率で障害が起こりやすくなります。当時の医療では治療の施しようがなく、死を待つしかありませんでした。その爆弾により現在も広島で人は苦しんでいます。事実、僕の曽祖父は、広島市内で原爆に巻き込まれ、黒い雨に打たれて、被爆者となりました。その後に生まれた曽祖父の長男は、白血病で亡くなっています。放射能を浴びると、白血病が高い確率で発生しやすくなります。戦争自体は終結しましたが、放射能による影響はまだ終結していないのです。原子力爆弾は、他の爆弾と違って放射能をまき散らすという性質から、何十年にも渡り、人々を苦しめます。
また、原爆投下を行ったのは、アメリカ兵の多くの命が 危なかったといわれていましたが、アメリカ軍人の命は、日本人の命よりも重いとは思えません。命はすべて尊く、 平等です。さらに原爆は、基地とは無関係の街に落とされ、 多くの一般市民が亡くなっています。現在では、できる限り一般市民が巻き込まれないように配慮して爆弾を落としているようです。
しかも、原爆の公式を作ったアルバート・アインシュタインはこれほどの破壊力を持つ破壊兵器の公式を証明したこと、原爆開発に携わったことを後悔しました。彼はドイツが原爆を完成しそうになったので、対抗して原爆開発に協力しました。それなのにアインシュタインは、原爆使用計画を知らされなかったので、本人は騙されたと思いました。
第二次世界大戦が終わってから70年以上経ちました。そして、約2000回以上の核実験が各国で行われましたが、幸いなことに、それらの核兵器は戦争においてまだ実際使われていません。僕の世代は、戦争がもたらす被害を知りません。知らないことにより問題意識が薄れ、危機感もなくなるかもしれません。そして、核兵器が戦争に使用されることになるかもしれません。恐ろしいことは、歴史や過去から学ばず、問題意識を持たないことだと思います。僕は、これからも原爆が正当化されることなく、戦争で核兵器が使われないことを祈っています。
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コメント
No title
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ナイジェル怜さんの文を読んで、原爆の図を描いた丸木夫妻を思い出しました。夫妻は広島の原爆投下でアメリカ兵が捕虜になり爆心地近くの地下壕で亡くなった事を知り、震えながら「アメリカ捕虜の死」を描いたそうです。丸木夫妻も怜さんと同じことを伝えたかったのだなと思いました。
私も、祖母から戦争体験をたびたび聞く機会に恵まれました。
Oさんのお孫さんのように、素晴らしい作文は書けませんでしたが、私の祖母も同じことを伝えてくれていました。
今年のお盆は「今度は、私が伝えていく人になるよ。平和をつくる人になるよ。」と祖母に手を合わせました。
Oさんのお孫さんのように、素晴らしい作文は書けませんでしたが、私の祖母も同じことを伝えてくれていました。
今年のお盆は「今度は、私が伝えていく人になるよ。平和をつくる人になるよ。」と祖母に手を合わせました。
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お孫さんにしっかりと伝わっていたことに感動しました。
平和はこうして、
大人の本気の姿が紡いでいくのだなと感じます。
ありがとうございます。