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平和への祈りはどこまでも
今日は野口先生のご命日です。
先生が、イスラエルで戦争が始まった時、「友人がいます。地球の痛みとして、とてもつらいことです」とお話しされていたことが思い出されます。
参議院選挙が7月10日、今日、6月22日は告示です。
最近の投票率は40%ほど、特に若者の投票率は他国と比べると非常に低くなっています。
若い人たちにとっては、自分たちの将来や生活、命に関わる平和憲法は特に大事なことなのですが、徴兵制や戦争に繋がるという危機感は薄いようです。
群馬では
『全国初お笑い芸人が選挙授業 たかまつななさんの「笑下村塾」全79高校対象』と上毛新聞で見ました。
若者が正しく思考することで選挙に臨んで、ウソやごまかしのない平和で格差の無い未来の政治を選んで欲しいと願います。
以前、雑誌「虹」に掲載し、また「女性のための自分で治る整体法」(野村奈央著・ソニーマガジンズ)にも書いた内容を以下にご紹介したいと思います。
本の出版はもう15年くらい前になりますが、今もその思い続いています。
この文章が多くの方の心に届き、平和な日本であることの力となっていくことを心から望みます。
*少し長い内容になりますので、2回にわけます。
日本の希望、世界の宝「憲法第9条」
平和を願う心
今憲法改正問題がさかんに議論されていますが、ある年の年賀状に93歳になる母が、こんな短歌をつくりました。
われ千鶴子 鶴は千年
ことわざに
われもまだ生き 9条まもる
母は教師として、教え子を戦場に送ってしまったつらい体験があり、戦後はひたすら平和を願い、平和のための活動を続けてきました。
終戦の年、昭和20年4月5日に産まれた私は、母のお腹にいて、防空壕に逃げたりする大変な状況の中で生を与えられました。8月5日、群馬県前橋は空襲を受け、街は一面火の海となり、焼け野原の中、私達家族は奇跡的に命を守られました。翌6日には広島、9日には長崎に原爆が落とされ、戦争は終わりました。後に、前橋も原爆投下の候補地だった事を聞きました。その日、前橋は曇っていたため、広島に原爆が落とされ、数十万の人々が亡くなったのです。私はそのことにとても大きな衝撃を受け、その後の人生にも大きな影響を受けました。母から、戦争の悲惨さを聞いて育った私は、再び戦争があってはいけないと思い続けてきました。
日本の憲法第9条は、人間の体に例えると、生命のもとに当たる背骨です。何がなんでも守り広げていきたい、そんな思いがこのところとくに募ってきています。ドイツに住む友人のミカエル・ロッターさんより、こんなメールが届きました。「憲法第9条は、大変素晴らしいと思う。ドイツには、はっきり、戦争をしないと明記した憲法が無い。ドイツも重要な時期に来ているので第9条を広げたい」という内容でした。
私達日本人にとって、憲法第9条は精神と魂の核です。平和憲法の精神を大きく広げ、その実践が、世界諸国の平和憲法の成立へとつながり、戦争の無い地球になる事を、新年に当たり願ってやみません。
平和に対する母の思いをつづった文章を紹介します。
「初めて見た母の涙」
1945年8月15日・・・・朝から太陽がじりじり照りつけていた。欅の大木でミンミン蝉がうるさく鳴いていた・正午に玉音放送があると予告されていたので、母と私は何も手につかずその時を待っていた。いよいよ放送という時に生後4か月の娘が泣きだした。
外の木陰で娘をあやしてから家に入ると、母の姿はどこにもなかった。家の裏手に出て、杏の木の下の縁台にようやく母の姿を見つけた。母は無言のままただただ泣いていた。私が見た初めての母の涙だった。母は出兵していた3人の息子の安否を気遣い、胸がつぶされそうな思いだったに違いない。
2番目の弟は、45年10月中旬に帰還した。母の笑顔を久しぶりに見た。しかし、後の2人の弟の消息は不明のまま月日は過ぎていった。母は毎日2人の写真に向かっては祈っていた。
私はそれまで小学校だけでなく青年学校でも教えることがあった。軍国主義教育の片棒を担いでしまったことに対する心の痛みは、2人の弟を待つ日々にあって募るばかりであった。46年3月に教職を退いた。
その年の11月、日本国憲法が公布された。日本は軍隊の無い国になる。信じられないような文言が並んでいた。理解するにつれ感動が沸き上がってきた。
48年4月、私は2男を出産した。憲法公布2年後に生まれたこの子に「憲二」と名付けた。この子を戦場に送ることは絶対ないのだと思うと、それだけで幸福感に包まれた。そのたびに憲法を読み返した。
「また教職に戻りたい。この憲法のもとで教師をやってみたい」という気持ちがしだいにふくらんでいった。
私がそんな思いになっていた48年11月、突然、末の弟が帰ってきた。そして1カ月後になんと上の弟が戻ってきた。2人とも逃避行、シベリアでの捕虜生活を経ての期間であった。2人の話を聞くにつけ、無事の帰還は奇跡としか思えなかった。母はうなずいて聞くばかりであった。その母は息子3人がそろったことに安心したのか51年、メーデーの日に他界した。
今また日本を軍隊の持てる国にしようとする動きが強まっている。93歳の私に残された命は限られている。孫やひ孫に残せるこれ以上ない遺産は憲法第9条だと思っている。「9条の会」に出かける道すがら、必ず思い浮かぶのはあの杏の木の下で無言のまま涙を流していた母の姿である。
(「日本国憲法と私」群馬県の明日をひらく革新懇話会編より、2006年刊)
先生が、イスラエルで戦争が始まった時、「友人がいます。地球の痛みとして、とてもつらいことです」とお話しされていたことが思い出されます。
参議院選挙が7月10日、今日、6月22日は告示です。
最近の投票率は40%ほど、特に若者の投票率は他国と比べると非常に低くなっています。
若い人たちにとっては、自分たちの将来や生活、命に関わる平和憲法は特に大事なことなのですが、徴兵制や戦争に繋がるという危機感は薄いようです。
群馬では
『全国初お笑い芸人が選挙授業 たかまつななさんの「笑下村塾」全79高校対象』と上毛新聞で見ました。
若者が正しく思考することで選挙に臨んで、ウソやごまかしのない平和で格差の無い未来の政治を選んで欲しいと願います。
以前、雑誌「虹」に掲載し、また「女性のための自分で治る整体法」(野村奈央著・ソニーマガジンズ)にも書いた内容を以下にご紹介したいと思います。
本の出版はもう15年くらい前になりますが、今もその思い続いています。
この文章が多くの方の心に届き、平和な日本であることの力となっていくことを心から望みます。
*少し長い内容になりますので、2回にわけます。
日本の希望、世界の宝「憲法第9条」
平和を願う心
今憲法改正問題がさかんに議論されていますが、ある年の年賀状に93歳になる母が、こんな短歌をつくりました。
われ千鶴子 鶴は千年
ことわざに
われもまだ生き 9条まもる
母は教師として、教え子を戦場に送ってしまったつらい体験があり、戦後はひたすら平和を願い、平和のための活動を続けてきました。
終戦の年、昭和20年4月5日に産まれた私は、母のお腹にいて、防空壕に逃げたりする大変な状況の中で生を与えられました。8月5日、群馬県前橋は空襲を受け、街は一面火の海となり、焼け野原の中、私達家族は奇跡的に命を守られました。翌6日には広島、9日には長崎に原爆が落とされ、戦争は終わりました。後に、前橋も原爆投下の候補地だった事を聞きました。その日、前橋は曇っていたため、広島に原爆が落とされ、数十万の人々が亡くなったのです。私はそのことにとても大きな衝撃を受け、その後の人生にも大きな影響を受けました。母から、戦争の悲惨さを聞いて育った私は、再び戦争があってはいけないと思い続けてきました。
日本の憲法第9条は、人間の体に例えると、生命のもとに当たる背骨です。何がなんでも守り広げていきたい、そんな思いがこのところとくに募ってきています。ドイツに住む友人のミカエル・ロッターさんより、こんなメールが届きました。「憲法第9条は、大変素晴らしいと思う。ドイツには、はっきり、戦争をしないと明記した憲法が無い。ドイツも重要な時期に来ているので第9条を広げたい」という内容でした。
私達日本人にとって、憲法第9条は精神と魂の核です。平和憲法の精神を大きく広げ、その実践が、世界諸国の平和憲法の成立へとつながり、戦争の無い地球になる事を、新年に当たり願ってやみません。
平和に対する母の思いをつづった文章を紹介します。
「初めて見た母の涙」
1945年8月15日・・・・朝から太陽がじりじり照りつけていた。欅の大木でミンミン蝉がうるさく鳴いていた・正午に玉音放送があると予告されていたので、母と私は何も手につかずその時を待っていた。いよいよ放送という時に生後4か月の娘が泣きだした。
外の木陰で娘をあやしてから家に入ると、母の姿はどこにもなかった。家の裏手に出て、杏の木の下の縁台にようやく母の姿を見つけた。母は無言のままただただ泣いていた。私が見た初めての母の涙だった。母は出兵していた3人の息子の安否を気遣い、胸がつぶされそうな思いだったに違いない。
2番目の弟は、45年10月中旬に帰還した。母の笑顔を久しぶりに見た。しかし、後の2人の弟の消息は不明のまま月日は過ぎていった。母は毎日2人の写真に向かっては祈っていた。
私はそれまで小学校だけでなく青年学校でも教えることがあった。軍国主義教育の片棒を担いでしまったことに対する心の痛みは、2人の弟を待つ日々にあって募るばかりであった。46年3月に教職を退いた。
その年の11月、日本国憲法が公布された。日本は軍隊の無い国になる。信じられないような文言が並んでいた。理解するにつれ感動が沸き上がってきた。
48年4月、私は2男を出産した。憲法公布2年後に生まれたこの子に「憲二」と名付けた。この子を戦場に送ることは絶対ないのだと思うと、それだけで幸福感に包まれた。そのたびに憲法を読み返した。
「また教職に戻りたい。この憲法のもとで教師をやってみたい」という気持ちがしだいにふくらんでいった。
私がそんな思いになっていた48年11月、突然、末の弟が帰ってきた。そして1カ月後になんと上の弟が戻ってきた。2人とも逃避行、シベリアでの捕虜生活を経ての期間であった。2人の話を聞くにつけ、無事の帰還は奇跡としか思えなかった。母はうなずいて聞くばかりであった。その母は息子3人がそろったことに安心したのか51年、メーデーの日に他界した。
今また日本を軍隊の持てる国にしようとする動きが強まっている。93歳の私に残された命は限られている。孫やひ孫に残せるこれ以上ない遺産は憲法第9条だと思っている。「9条の会」に出かける道すがら、必ず思い浮かぶのはあの杏の木の下で無言のまま涙を流していた母の姿である。
(「日本国憲法と私」群馬県の明日をひらく革新懇話会編より、2006年刊)
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